タワーリング・インフェルノ

タワーリング・インフェルノ僕の映画初体験は1974年度の「タワーリング・インフェルノ」だった。確かではないのだけれども小学校の5年生の夏休みだった思う。その当時、僕は埼玉県の所沢市に住んでいた。昭和五十年前後の頃である。何かの用事で母と僕は新宿まで出掛け、その帰りに無理を言っておねだりをして観たのだ。母の方にしてみれば今から考えると「仕方ないわね」というあたりだったと思う。映画はそれまでにも観ていた。ただそれはいわゆる夏休みマンガまつりなどと呼ばれていた物がほとんどであった。お子様向けであったのだ。アニメや怪獣が出て来る物であった。しかしながらこれはこれでとても楽しかった。特に「長靴をはいた猫」は詳しい内容こそ忘れてしまったものの幼心に凄くこーふんしたのは今でも覚えている。初体験というのは、ロードショウでちゃんとした劇場で大人でも観賞に耐えうる物語で大人の俳優さん達が出演している映画という事である。


当時の所沢近辺には映画館など無かった。有るには有ったのだけれども元、ストリップ小屋らしいという噂のとてもくたびれた外観の映画舘が一つだけだった。小学生が仮に両親や知人の大人が引率したとしても行きたいとは思わない地域でもあった。場所柄が恐かったのである。中学校に入り何人かの友達とそこでやっている映画の話をしている時だった。隣に座っていた女の子に尊敬とはほど遠い眼差しで「東くん達ってあんな所に行くんだ?」と言われた。彼女に言わせるとその映画館の舞台中央にはデベソと呼ばれる迫り出した場所があり、そこは女の人が裸で踊る為のスペースだと丁寧に解説してくれた。


元、ストリップ小屋という噂は本当だったのだ。その証拠がデベソであり、その必然性及び用途までを軽蔑的な眼差しと供に熱く語って頂いたのである。彼女の態度は「あんなイカガワシイ場所に君達は出入りするのね」という感じであった。先生などに言い付けてどうのこうのというタイプの子ではなかったのだが僕達は白けてしまってその時の話はそこで終わってしまった様な気がする。


この頃はまだビニ本もAVも無かったけれどもエロ本はあった。エロ本と言ってもプレイボーイやGOROあたりである。たまに多少ドギツイのが有った程度である。それを友達同士で回し読みしていた。しかしその事実を同じクラスの女子に知られてしまうという事はやはりマズイ。その今は無き正式名称所沢中央映画劇場は時々エッチな映画もやっていた。彼女によってどの様な形で報道されるか判らない。だいたい歪曲され尾ひれが付いてしまうもんである。写真やマンガではなく、画面の動く映画である。インパクトはエロ本の10倍はあるであろう。東君達が東君一人になり、カー・アクションがエロに変ってしまうかもしれない。噂はとどまる事を知らない生き物であり、怪物だ。どんどん大きくなってしまうものである。この時僕は内心ビクビクしていた。勿論、その手の映画は観たかったけれど。


ちなみにその時話題にしていた映画は「バギー・チェイス」というB級アクションだった。所で、である。一体、何故にこの隣に座っていた女の子はこの様な事を知っていたのであろうか?ましてや「デベソ」などと言う特別専門用語も存知上げていたのだろうか?今現在でも解らない。


小学校の6年生の頃に「スクリーン」という映画雑誌を毎月買っていた友人がいた。家に遊びに行った時など見せて貰っていた。同じ頃何かの時に彼の話になり「彼は毎月イヤらしい雑誌をおこずかいを貯めて買っている。ジュースやお菓子を我慢して」という噂話を聞いた。女の子のあるグループからである。話の雰囲気からして「東君ももしかしたら共犯じゃないの?」という感じだった。僕は当然「記憶にございません」とロッキードの時の証人喚問の様にその場はしのいだ。しかし、僕は心の中で「何でスクリーンは見せてくれるのにそのイヤらしい雑誌は見せてくれないんだろうか?何か気に障る事を僕はしたのだろうか?今度スペシャルなブツが手に入っても見せるのはやめようかな。実はケチな奴なのかな?」などと本気で思った。しかし、答えは既に出ていたのである。「スクリーン」という映画雑誌がそのイヤらしい本だったのである。そう言えば「エマニエル夫人」がブームになっていた頃だった。彼はちゃんとイヤらしい雑誌を見せてくれていたのである。頭の片隅にこの事があったのだろう。彼とは同じ道は歩みたくはなかったのだ。同じクラスの回りの女の子の冷ややかな視線は痛い物だ。


随分と話がそれてしまった。元に戻そう。劇場は歌舞伎町にある新宿ミラノ座だった。所沢中央映画劇場とは何もかもが違っていた。外観、スペース、スクリーンの大きさ、シート、匂いなどである。映画が始まる前に既に11,2歳の男の子をコーフンさせる条件は十分に揃っていた。とにかく、マックィーンがカッコ良かった。ヒーローという言葉はこんなマックィーン演ずる消防士の為にあるのでは、と思った。火災現場に駆け付け、部下達に的確な指示を出している姿は本当に頼もしかった。言葉ではなく全身から「火事は俺達が消す。みんな、行くぜっ」という感じが出ていた。


1991年にロン・ハワード監督の「バックドラフト」というやはり消防士達が主人公の映画があった。消防士の兄弟の関係を軸に謎解きの要素も加わりこちらもなかなか見応えのある作品だった。彼らもまた勇ましくカッコ良かった。好みは分かれる所だと思うが「タワーリング・インフェルノ」の方は巨大な高層ビルが大きな割合を占めていてパニックになった状況その物が物語りを作っていた様な気がする。これは現在感じている事であってその当時はただセットの凄さや炎の勢いにただただ口をあんぐりと開けて観ていただけである。映画も中盤にさしかかった辺りの事である。火の手が、手抜き工事の為に高層ビルの数ヶ所で上がり始め勢いも強くなっていた。僕は興奮していた。今までテレビなどでは目にしたことの無い映像である。


迫力に押され僕は思わず隣の母を伺った。


所が母は寝ていた。


イビキはかいていなかったのだがすやすやと気持ち良さそうに寝ていた。僕は喉元まで出掛っていた「人が燃えてる。大変なんだよ。みんな助からないかもしれないよー。ビルはすげぇー高いんだぁー」という言葉を飲み込んだ。しかしながら僕はすぐにスクリーンの中に戻れた。小学生の僕にしてみればこの映画は刺激が強く、緊張感と臨場感の連続であった。ただただやられっぱなしだった。大きなスクリーン、ステレオの大音響、観客のざわめき何もかもが新鮮だったのである。だいたい男の子は小学校の高学年から中学生辺りに自分の趣味みたいな物が出て来る様な気がする。そのタイミングにこの「タワーリング・インフェルノ」があったのではと、今は思う。そしてこの一本の作品が映画という媒体への入り口だった様なのだ。それまでにもテレビの何とか映画劇場はよく観ていた。


意味も分からずに「イージーライダー」(1969年・デニス・ホッパー監督)も観ていたはずである。多分、今から考えると「大脱走」を観た時のマックイーンの印象が強かったのだろう。バイクでバラ線の国境を越えるシーンにはしびれた。「あの人が出てるんだ。また、やってくれるんだろうなぁ」とおぼろげながらに思った事は覚えている。この頃は監督の名前よりスターと呼ばれる俳優さん達が観たいなと思わせる大きな要素だった。


始めて「大脱走」を観てから数年後にまたテレビで観た時の事である。バイクのシーンもやはり凄くカッコ良かった。しかしながら2回目の時は彼が捕まり、例の如く独房に押し込められ一人壁を相手にキャッチボールをする所の方が凄く良いなと感じた。独房に連行される途中にボールとグローブを放り投げてくれた人もとても優しそうな気がした。「こんな友達がいてくれたらな」とも思ったし、僕もこの人みたいに喋らずに友達の望んでいる事を出来たら良いのになとも思った。メインテーマの音楽も少しとぼけた感じのする行進曲風の物でこの時のマックィーンの気持ちにスッゴク合っている様な気がした。


映画のラスト近くの辺りだった。屋上の貯水タンクを爆破させ何とか消火が成功してビルに居た人々が地上に戻れた。マックィーンと設計技師を演じていたポール・ニューマンが二言三言会話を交わす所があったと思う。此の時のマックィーンもかなりクールであった。はっきりとは覚えてはないのだが「もし、またこの様な高層ビルを作るんだったら相談に乗るぜ」みたいな事を言い、帰って行った。それも恩着せがましく無く、さり気無くであった。