ディア・ハンター

ちょっと格好を付けすぎたのだろうか?

初めて女の子とデートしたのは中学校を卒業したその春休みだった。

高校受験が終わり、地元の中学の友達とはばらばらになってしまう状況で一安心と供に多少センチになっていた頃だ。僕の通っていた学校は公立の市立でごく普通の中学校だったと思う。強いて言うならば市の中心に近い方だった。ちなみに僕が小、中学校を過ごしたのは東京の隣の埼玉県の所沢市という所である。おおまかに言うと東京のベッドタウンとして発展して行った街だと思う。

 

1979年、「ポパイ」という雑誌さえ買えばおしゃれなシティー・ボーイに成れると思い込み始めたのもこの頃だった。フランシス・フォード・コッポラ監督の超大作「地獄の黙示録」の完成が遅れていると話題に成っていたのもこの時期ではなかったのではないのだろうか?

popeye1979-04-10All Rights Reserved.

 

ファースト・デートの少し前に二人の友達と花屋さんでアルバイトをした。駅前の辺りを三人でふらふらしていて小さな張り紙を発見して飛び込みでお願いしてみたのだ。フロム・エーとかは存在してないし、アルバイト・ニュースも大学生とかが読むものだと思っていた。僕たちは雇ってもらえたらラッキーという感じでダメもとだったのだ。

 

その時、僕はとにかくデート資金を少しでも確保しなければという所だった。花屋さんといっても美しい看板娘がいるとか名前も知らない海外の色鮮やかなお花に包まれた店内とは全く関係の無いお店だった。蛍光灯に蛾とか小さなハエがやたら元気良く飛び回っているのが「ビンゴ」という雰囲気だった。しかしながらそういうお店だからこそ使って貰えたのかもしれない。

 

何たってチュウボウだったんだから。

 

「行ってみますか?」という心持ちで僕ら三人はおどおどしながら無言で店内に入った。

奥の方から日焼けした五十代前半と思われる小柄のおやじおやじした男の人が出て来た。緊張が三人の中に充満していてほとんど蝋人形様にポケッと立っていた。僕がデート代、一人はレコード代、もう一人はカメラ代だった。

 

レコードが最初に口を開いた。「あのぉー、アルバイトの必要は有りますか?」

おやじおじさんは三人をねっとりとみてから「まぁな」という様な顔をしていたが口は開かなかった。

 

僕は「アルバイトをさせて頂きたいんですが・・・・・」と蟻の独り言の様に言った。

目は合わせられなくて辺りをきょろきょろ見回しながらだ。カメラは何故か怒った表情でそのおやじおじさんを黙って睨み付けていた。あまり好きにはなれない間であった。

僕は「あーぁ。やっぱり高校生に成らないと無理なのかなぁ。チュウボウだもんな。」とすかさず思った。

けれどもおやじおじさんは「駄目じゃないかみんな。こういう時は元気良く言わないと・・・・」と突然、大きな声を出して使って貰える事になった。

仕事の内容は特になく「これやって。あれ持ってきて」などなどつまり使い走りである。勿論その位のことしか出来ないのだ。考えてみれば入学式までのたった十日間程の期間だ。正直、よく使って貰えたなと今更ながらに思う。

 

時給は380円だった。何となく仕事らしい仕事というと駅前のコーナーで小さな鉢植えを売った事ぐらいだった。300円、400円と値段とサイズの異なった色とりどりのパンジーを白い袋に入れ、お金を頂き接客する作業だった。お客さんは当然女性が多かった。仕事帰りの綺麗なOLのお姉さんもいて少し自分が大人になった様な気がした。たまにカメラが楽しそうにそういう女性達を相手に笑顔で接客しているのを見た時には驚いた。

 

「全く、何だよ。それだったらあんなに怖い顔を面接にするなよなぁー」と意見したくなった。

この数年後に「なめたらいかんぜよ」というセリフで話題になった映画があった。僕の頭の中ではその啖呵を切る女優さんの隣になぜかこの時の面接の時のカメラがいるのだ。何とあの美しい女優さんと共演してしまっているのだ。変な物である。

 

おやじおじさんは夕方四時を回った辺りから缶ビール・お酒のワンカップを飲み始めていた。もともと地黒だったのかはわからないが、日焼けもしていてプラスアルコ-ルである。その顔色は赤茶色に染まっていった。しかし、営業時間内であり、その時間帯辺りから通勤・買い物帰りの人々で忙しくなるのだ。僕ら三人はそれなりに怒っていた。

 

「何だよっ。あのオヤジっ。飲むんだったら時給上げろよぉなぁー」などと関係有るのか無いのか分からない事を言いウサを晴らしていた。困った事が一つ有った.赤茶おじさんは店主らしく首にワイヤレスマイクを付けていた。

お客さんの呼び込みの為である。そして花粉症だったのかもしれないのだがよく鼻をかんでいた。

 

所で、である。花粉症というのは一体何時頃から大変な事と認識されるようになったのだろうか?僕に限って言うとこの頃、昭和五十五年前後はその言葉さえ知らなかったのだ。 赤茶おじさんは夕方お酒を飲む前には鼻をかむ時は、マイクのスイッチをちゃんとオフにしていた。

 

飲んだ後には「いらっしゃいませぇーっ。どうぞぉー」の後の必ず「ぶっびぃー」という鼻をかんだ時の音がスピーカーを通して大音響で改札近辺に流れた。お客さんの顔を見ていると一瞬辺りを見回してキョトンとしていた。ほとんどの人はその変な音が一体何なのか解らなかったと思う。僕にしても最初はマイクかスピーカーの故障だと思っていた。教えてくれたのはレコードだった。

 

突然レコードが寄って来て「ちょっと・・・・・」と、言い耳に手を当てた。「ぶっびぃー。ふーうっ。おりゃ」とその時は鼻をかむ時以外の音も聞こえた。

 

僕が「そうそう。これ。これだよ。俺も気になって・・・」と話し始めるとレコードはくるりと振り返り、アゴで赤茶おじさんを指した。おじさんはティッシュを丸めて鼻を拭いていた。レコードは僕が何か言おうとするのを制するかの様に人差し指を唇に一瞬当ててからサッと女子大生風のお姉さんの所に軽やかなステップで行ってしまった。

「いっらしゃいませぇー」と何時になく大きな張りのある元気な声で。

僕にその「いっらしゃいませぇー」が「秘密だよーん。もう少しの間聞いていよぉーねぇー」に聞こえた。

その日も閉店まで「ぶっびぃー。はっ。どっこいしょ。うりゃ」などなどは終わらなかった。何だかんだと、ぶつぶつと言いながらも僕ら三人は一緒にバイトが出来る時間が楽しかったんだと思う。

 

卒業を終え、高校の入学を控えた15歳のガキどもだ。話すネタなど尽きるわけがないのだ。まぁ、正直に言って雇い主の方にしてみれば「動け」の一言以外僕らにかける言葉は無かっただろう。とりあえず無事にバイトは終了し、デート代は確保出来た。僕は気合いを入れて奮発してナイキのフォレストヒルズといテニスシューズを買った。この頃からコンバースからナイキにスニーカーの王道が変わって行った様な気がする。都内の事は置いておいてここ、所沢辺りではナイキを「にけ」と発音してもまだまだ大丈夫だったと思う。

 

そう、そう、2003年の「キル・ビルvol.1」でユマ・サーマン演じるブライドがオニツカのスニーカーを履いていたのには何故か嬉しかった。そう言えばビッカーというシリーズも有ったよな。ファースト・デートは資金を確保すれば「100%安心」というほど簡単でも単純ではなかった。お気に入りのスニーカーもお守りにはなるかもしれないのだが水戸黄門の印籠ほどではないのだ。不安材料の方が断然に多かったのだ。何ってたって新宿の歌舞伎町が相手である。今、こうして考えてみるとなぜ映画でなければならなかったのだろうか?それに場所も歌舞伎町だったのか?と思う。中学生だったら「公園でボートでも乗っていれば良いだろう」とおじさんになった現在の僕は自分の事ながらに思うのだ。ましてや「ディア・ハンター」何て・・・。

 

この頃にはまだチーマーは団体識別されていなかった。しかし、「ツッパリ」は市民権が有るかのごとくなぜかそれなりに認識されていた。不思議だった。僕はどちらかというと「ツッパリ」のグループにも入っていなかったし、ましてや勉強の出来る優秀な方でもなかったのだ。

ごくごく平凡な取り柄のかけらも無い15歳だったと思う。不安材料というのは、よく解らない人々に絡まれたら?財布を落としたら?ランチに予定しているピザを彼女が嫌いだったら?映画のクライマックスでお腹が鳴ってしまったら?・・・などなどである。色々あれこれ考えたら切りのない無い事は頭の中では十分理解していた。でも、そんなにはシャープに割り切れないのであった。本当に大切な事はただ一つだ。「この人はもしかしたらバカなのではないのだろうか?」と思われない事なのだ。その様にさえ思われなければとりあえず何とかファーストデートは自分的にはオッケイだった。そんなにクレバーな方ではないとは知ってはいたのだけれど。

 

この当時、他にも観たい映画は沢山有った。

「ビッグ・ウェンズディ、グローイング・アップ、ナチ女秘密警察・SEX親衛隊、旅芸人の記録」などなどである。勿論、最後の作品は大嘘である。正しい選択は日本中の老若男女全ての人々が120%の確信をもって「ビッグ・ウエンズディ」と答えるだろう。もしかしたらマイケル・チミノだって「一人で来るんだったら良いけど、始めてのデートだったら・・・」と言葉を濁すかもしれない。しかし、「ビッグ・ウエンズデイ」はロードショウまであと一ヶ月以上もあったのだ。 「グローイング・アップ」は何人かの男の友達と一緒に観たかった。

帰りに出演していた奴らの真似なんかしながら盛り上がりたかった。何故かこの当時は彼女にはあほ面でゲラゲラ笑っている姿を見せられないと思ったのだ。この時の思いこそ、15歳の僕の真実の紛れもない一つの断片だと今は、思う。 例えば、である。彼女が自宅に帰り、彼女のお母さんに「今日はどうだったの?どんな彼なの?」と、聞かれ「全くねぇー。聞いてよ、お母さん。あんなに下品でいやらしい映画を観て天国にでもいる様な感じで楽しそうに笑ってんのよ。アホとボケとカスをぜーんぶ足してジューサーでシェイクして出てきた様な人。本当にサイテェー」 などと言われたら困るのだ。

 

しかし、僕は「グローイング・アップ」は好きな作品である。黒澤明だってタランティーノだってスコセッシだってチャン・イーモウだってヴィスコンティだってフェリー二だって「止めとけよ」とアドバイスしてくれたかもしれない。ショ-ン・ペンだけは「うーん。まっ、がんばれ。お前はその子と観たいんだろう」と言ってくれたのでは?と最近、彼の過ごした20代30代を横目でちらちらと観ていたら感じた。ちなみに彼は僕の一つ先輩のはずである。

 

僕はデートの前日の夜布団に入ってからお祈りをした。「魅せてくれデ・ニーロ。たった一回のデートでジ・エンドは悲しすぎるぜウォーケン。任せたぞメリル」と手を合わせオマケに声まで出して隣で寝ている兄にウルサイと言われた。映画はハンパでは無い重たい物であった。15歳の僕の頭のキャパシティをパーフェクトに余裕で超えていた。観終わってからの気持ちの行き場所にも困った。ロシアン・ルーレットのシークエンスにはほとほと参ってしまった。びんたがやたらと痛そうだった。僕だったらデ・ニーロの様にあそこでビッグな賭けには出れねぇーよ、と思わず考えてしまった。僕はどっぷりとこの映画にはまってしまっていた。しかし、しかしなのだ。デートなのであるのだ。僕一人だけがテンションが上がっては駄目なのだ。正直な所、彼女はとてもとてもお疲れのご様子であった。繰り返しになってしまうのだけれども選択の問題である。もう少し、ロマンチックでスウィートでハートウォーミングな物を探す事が鉄則だろうと今更ながらに感じる。「典型的な知ったかぶりの嫌味な奴だったんじゃなのか?お前は」・・・」とも思えた。

 

映画館を出てからの記憶という物があまり残ってはいない。彼女の口数を映画が奪ってしまったのだろうか?それとも僕が余韻の中にいる事を感じ取ってくれて黙っていてくれたのだろうか?彼女とはこの映画のデートを黒のボディのケタタマシイ音のする電話で約束した。勿論、「何時頃にかけるから絶対に出てね」というコンタクトは前もってしておいた。間違っても御両親のどちらかが出て突然、言語障害になったりしない為である。

時代である。

この約束のシークエンスで笑う人々と「何を言っているのか解らない」と、のたまう人々に分かれると思う。これこそ、ジェネレーションギャップであろう。その時にたまたま彼女の家には叔母さんが遊びに来ていた。実の所、彼女のお母さんは高校の入学を控えた大事な時期に田舎の中学生二人が新宿で、映画でデート、という企画を手放しでは賛成していなかったらしいのだ。彼女から後日聞いた事である。ところが、この叔母さんは味方になってくれたそうなのだ。 「ディア・ハンター」という映画が紛れも無い傑作であり、名作らしい。全米でも賞賛の声が多い。という様な事を彼女のお母さんを相手に演説して頂けたそうなのだ。 その当時この事を聞いた時は正直な所特に感慨も無かった。しかし、今は、違う。素晴らしい叔母さんである。この様な方を「天使」と呼ばずして、一体、誰を神の使いと呼べばいいのか?と思う。この叔母さんが存在している同じ惑星に生まれた事を感謝しなければいけないと、今更ながらに思うのだ。いや、銀河系のルールからしてもこの様なアシストに対しては南の島の一つ位差し上げても足りないくらいであると思うのだ。

 

最後になってしまったけれども花屋さんの赤茶おじさんにも「ありがとう」と言わずにはいられない。そうそう、このおじさんは何処となくサイゴンのアンダーグラウンドのロシアン・ルーレットの仕切り屋に似てない事もなかったのだ。「あのさぁー。観てないかもしんないんだけどぉー。「ゴッド・ファーザー・パートⅡ」っていう映画が有ったんだよ。「パートⅡ」って言うくらいだからその前作が有るんだけれどもね・・・。それで若き日のドン・ヴィトー・コルレオーネを演じたロバート・デ・ニーロってメチャメチャカッコ良いんだよ。そのデ・ニーロの一番新しい作品で主演なんだ。その映画を初めてのデートで観たいんだよ。一緒に・・・」