全く、ほんとーに・・・。もぉー。
どうしてこの人とこんな狭い息苦しいエレベーターの中で二人きりにならなくちゃいけないんだろうか?
これはもしかしたら、いや、多分サラダのバチが当たったのだと思う。
昨日の晩御飯の時に僕はセロリを食べたフリをしてお母さんのお皿にこっそり入れてしまった。こういう時は一つ位をガマンして食べて「ごめんなさい」をして素直にお母さんに頼めば良かったのだ。「よく食べたわね」とお母さんに言われ得意そうな顔をしていたのを神様はきっと何処かで見ていたのだろう。
僕はこの人があまり好きではない。
何て言うのかお調子者なのだと思う。とにかくよく喋るのだ。それは特に僕に対してだけではないと思うのだけれど。お店に行った時や配達の途中などで会うたんびに「背が伸びたな」とか「床屋に行ったな」とか「オシャレしてんな。デートか?」などといちいちウルサイのだ。それに加えていつもヘラヘラ笑っている。そうして近付いて来て頭をごしごし触るのだ。つまりやたらと馴れ馴れしいのだ。僕は少し人見知りをするし、一緒によく遊んだりしてない奴に話しかけたりするのがあんまり好きじゃないのだ。
よくは覚えていないのだけれども確かお母さんのお兄さんのお嫁さんの弟さんなのだ。だから僕とは親戚になるし会えばちゃんと「今日は」と言う。
この人、健太おじさんは駅の反対側のお寿司屋さんで働いている。今年成人式だったそうだ。お母さんはお祝いにとユニクロで白いボタンダウンのシャツを2枚とネクタイを一本プレゼントした。実家の方も御寿司屋さんで東京の遠い知人を頼って勉強というか修行に来ているそうなのだ。もう、2,3年程こちらでガンバラなければならないらしい。だからこの近所もそうだけれども、関東の方には友達は殆どいないらしい。そのせいかどうか分からないのだけれども休みの日にはたまに僕の家にやって来る。お父さんは健太おじさんが来る日はふだんより早めに帰って来るような気がする。僕からするとおじさんが持ってくるお刺身の盛り合わせなどに釣られているのだと思う。そう、そう、お母さんは「おじさんじゃなくて “お兄チャン”と呼びなさいね」と言っていた。でも僕にしても健太兄ちゃんはあんまり好きではないけれども、お刺身は食べたい。
健太兄ちゃんのお店は回転寿司ではなくて僕があんまり「トロ・海胆・イクラ」などは頼めない立派な所なのだ。たまにはお母さんの方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃん
五人で行く事もある。お父さんとお母さんと三人だけの時は「哲ちゃんはもう、お腹いっぱいでしょ」とよく言われる。駅のこちら側の回転寿司ではあんまり言われないし、祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒の時もあまり言われない。
僕の名前は三田哲夫。今年小学校に入った。ぴかぴかの一年生らしいのだ。みんなには‘てっちゃん’とか‘てつ’とか呼ばれている。真美ちゃんには‘哲夫くん’と呼ばれる。僕は真美ちゃんに「哲夫くん」と呼ばれる時の「くぅん」のところがなぜだか解からないが凄く嬉しい。嬉しいというか気分が良いのだ。上手くは言えない。「哲夫くぅん。セロリって美味しいよ。食べなよ」なんて言われたら「はいっ。頂きます」と言って2秒で食べてしまうだろう。それにもしかしたら真美ちゃんの魔法がかかって味そのもの物も変って来ているかもしれない。他の人が同じ様に言っても真美ちゃんの言う「くぅん」は絶対に特別で違うものなのだ。
小学校に上がって分った事なのだけれどもランドセルは以外と重い。お父さんとの約束で英会話の塾にも通い始めた。ここでは文法の方も習っている。塾といっても同じマンションの先生の自宅が教室だ。僕の最近の好きなフレーズは「シュア」という奴だ。僕的に訳すと「好いよぉー」「大丈夫・問題は無いよ」だと思っている。
少し前に先生に「てつはトマトが好きか?」と日本語で聞かれ「イエス」と英語で答えた。塾の後に何人かの生徒とファミリーレストランに行った時の事だ。先生は和風グリーンサラダとライ麦ブレッドとミルクティーをオーダーしていた。僕たちはケーキとかパフェとかジュースを頼んでいた。「じゃ、てつ、食べて」とフォークに刺さったプチトマトが目の前に飛び込んできた。僕はその前の前の授業で習った「シュア」を此処で使えると思い、絶叫したかったのを抑えて英国紳士の様に柔らかく答えた。するとシモーヌ先生は僕のほっぺたにキスをしてくれた。少しパヒュームの匂いが強かったけれどもお母さんの「ちゅっ」とは違ってカッコ良くて嬉しかった。僕はシモーヌ先生がトマトが嫌いなのかまたは僕が好きそうだからくれたのかは今でも分からない。とにかく「シュア」の使うタイミングは間違いなかったようだ。シモーヌ先生は僕たちが良い発音をしたり習った会話を授業以外で使ったりすると軽いハグやキスをしてくれる。ほんと-に最初の頃は恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかったけれど今では慣れてきた。
実を言うと英会話の塾はお父さんからの命令だったのだ。ピアノ・水泳・英会話の中から一つ選びなさいという事だったのだ。本当はどれも気が進まなかったけれど何か一つやらないとファミコンの時間が減らされそうだったので「はい、英会話」をと元気良く答えた。お父さんはシモーヌ先生の事をデブラ・ウィンガーというアメリカの昔の女優さんに似ていると言っていた。僕はその人は知らないし、写真も見た事もない。でも何となくお父さんはシモーヌ先生の事は嫌いではないと思う。僕の住んでいるマンションの3階には隣の2組の公ちゃんが居る。僕の家は2階だ。公ちゃんは英語と数学の塾と体操の教室にも通っている。公ちゃんに比べれば僕はまだ楽をしている様な気もする。
少し前に公ちゃんと公ちゃんのお父さんと三人で釣堀に行った。おじさんが9匹で僕が5匹で公ちゃんは一匹も釣れなかった。帰りがけに公ちゃんはなぜか怒られ、泣き出してしまった。僕は5匹も釣ってしまい少しだけ自分がイケナイ事をした様な気持ちになった。その時おじさんは「ブンブリョウドウ、遊びもできない男は仕事もできない」などと僕には解からない事を大きな声で話していた。これと関係有るのか無いのか僕も理解してないけど英会話の一つ位は良いかなと思って結構真面目に行っていると思う。
真美ちゃんも同じマンションに住んでいて僕や公ちゃんと一緒に一年生になったのだ。真美ちゃんは特に塾などには行ってはいない。ちなみに真美ちゃんは6階だ。真美ちゃんは髪の毛が男の子みたいに短い。でも、やっぱり可愛いのだ。僕としては出来たら髪の毛を長く伸ばして欲しい。先週、その事を言うつもりで朝の集合場所に行った。
「よっしゃ」と思って気合を入れて真美ちゃんの隣にダッシュで行ったのになぜか急に顔が熱く成って来て「変な寝癖」などと自分でも意味不明の事をほざいてしまった。正真正銘の大失敗だ。しかし、あの一瞬は一体何だったのだろうか?それから真美ちゃんは僕が近くに行くと逃げるのだ。現在も継続中である。オマケに「哲夫って、めちゃんこサイテェー」と5回も言われた。‘哲夫くん’ではなく呼び捨てだった。かなりコタエテいる。
学校には集団登校で行っている。何年か前まではばらばらに登校していたらしいのだけれど・・・。僕が思うに変な怖い人がとても多いからこうなったのだ。何か怪しくて不自然な人が近くに来て話し掛けてきたらスーパーダッシュで逃げなくてはいけないのだ。
朝の登校は6年生のおにいさんの班長さん後を付いて行く。一番後ろは5年生の副班長さんのお姉さんだ。このお姉さんはスペシャル怒りんぼだと僕は思う。僕と公ちゃんが横に並んで歩いたらすかさず「一列、一列」と、物凄く大きな声で怒鳴るのだ。一度お父さんにこの事を話したら笑いながら「シャーラップ。ドナルド」と言い返してやれと言っていた。お母さんには心配そうに「ちゃんと、お姉さんの言う事を聞きなさい」と言った。果たしてドナルドって何だろうか?マクドナルドとは関係があるのだろうか?まさかディズ二ィーのアニメのキャラクターと怒鳴るを掛けて僕を笑わせようとしたのではないだろうな?僕はテレビに気が取られているフリをして聞こえない事にしてその場をしのいだ。親子関係はなかなか難しい。
こういう所で真美ちゃんは絶対に怒られない。どういうわけかこの怒りんぼお姉さんにたまにキャラメルを貰ったりしている。僕と公ちゃんは一回も貰ったことは無いのに。要領が良いというより真美ちゃんは大人なんだなと少し自分でも思う。この事件の後に真美ちゃんが解説するのには健太兄ちゃんはとても良い人であり、僕の事をとても大切に思ってくれているのだ。と話してくれた。それだからこそ訳の判らない事をしながら色々紛らわしてくれていたと言うのだ。流石にエレベーターの扉が開いた瞬間はビックリしたと言っていたけれど。真美ちゃんの解説は当たっているかもしれない。そう考えればへらへらはニコニコにチェンジだ。
そうそう、所で僕はミッションの途中なのだ。
昨日、お父さんの実家の栃木から苺が届いた。毎年、この時期に頂いている。僕も練乳を掛けて食べるのが大好きなヤツだ。お母さんはそのままで食べるのが一番好きみたいだ。たまに細かくしてハーゲンダッツのバニラのアイスに混ぜたりしても食べている。時々ジャムも作っている。お母さんは練乳を掛けて食べるのはあまり好きではないみたいだ。お父さんは「食い飽きたよ」と言って殆ど食べない。実はこれはこれでラッキーなのだ。
7階にはお母さんの着付け教室の先生が住んでいる。和田のお婆ちゃんだ。何回かお母さんが僕の家でご飯に呼んだりしている。和田のお婆ちゃんは何となく去年の今頃まで僕はコワかったのだ。正座した時の姿勢が悪いと怒鳴られた事が有ったからだ。でも、その時に宅急便で苺が届き、僕がお母さん、和田のお婆ちゃんの二人と全く目を合わせず、練乳を掛け苺を食べ始めた。それ以外にこの時にする事が無かったのだ。すると和田のお婆ちゃんは「そうして食べるのがてつ君は好きなの?」と話し掛けて来た。僕は「まぁね」と全神経を苺に集中させて87%くらいのしかと状態で答えた。「お婆ちゃんもマネして良い?」とまた、聞いてきた。僕はこの時、何だか不思議な気が一瞬した。随分年上の大人が話す聞き方ではない感じだったのだ。今さっき怒った人では無い様な気がした。「勝手にマネすれば良いのに」と思ったし、「そんな事いちいち聞くなよなぁー」と言いたかった。そうするとお婆ちゃんは僕と同じ様に練乳を掛けて食べ始めた。ウルトラ美味しそうに食べていた。だから今年のこの苺を失礼の無いように届けなければいけないのだ。さっきまで家でお母さんを相手に玄関に入る所から練習していた。お母さんに見送られ、エレベーターに乗り込んだら出前に行く途中の健太兄ちゃんがいた。お母さんは僕の事を健太兄ちゃんに「調度良かったわ。7階までお願いします」と言った。僕は心の中で「一人で行けるぜ」と呟いた。扉が閉まった。
「どうだ、哲夫学校面白いか?」と7階のボタンを押し話しかけてきた。
「別に。まぁまぁだよ」
「ふーん。そうか。まっ、サボってると2年生に成れないからな」
「それは余裕だよ」
と、言った瞬間ガタンと大きな音がしてエレベーターが止まった。表示板の電気が消え、天井の電灯も消え、真っ暗になってしまった。10秒位してから小さなオレンジ色の豆電球が付いた。役にたっている明るさではない。はっきり言って僕はビビっていた。暗いのが大の苦手なのだ。オマケにどういう理由か息苦しくも成ってきた。真美ちゃんの髪の毛の時やかけっこの始まる前の時とはチヨット違う。
「あーぁ。又かよ。この間は渋滞に巻き込まれてさ。哲夫さぁ、こういう事があると親方なんてまるで俺が壊したみたいに言うんだぜ。参っちゃうよな」
僕は心臓がどきんどきんしていた。間違っても健太兄ちゃんの前でアセッている顔は見せられない。
「どうした?何か顔が引きつってねぇーか?」
「うるさいなぁー」
「あれっ?何だよ?恐い顔すんなよ」
「別にしてないよ!」
「・・・大丈夫だよ。すぐに動くって」
と何時になくゆっくりと健太兄ちゃんは言った。
「別に恐くなんか無いよ」
と聞かれもしない事を必死になって答えた。凄くムキになってしまっていた。少しだけ声が震えているのが自分でも分った。まずい。
「だからな、それがさ・・・」
次の瞬間またガタンと音がして動きだした。
「やったぜ。ラッキー」と心の中で叫んだ瞬間今度は音も無く止まった。僕は体勢を崩し後ろにひっくり返り尻もちを付いた。カッコ悪すぎだ。「やばい。苺が」と思って慌てて背中のデイパックを降ろした。中身を確認すると大丈夫だった。この時練乳がお婆ちゃんの家に有るのか急に心配になった。練乳とセットの方が良いに決まっているのだ。練乳も買ってから出動すれば良かった。そんなにはお尻も痛くなかったのに目の奥の方がむずむずして来た。こぼれそうな前兆だ。絶対にこれだけは避けなければなない。健太兄ちゃんに後で何を言われるかわからない。深呼吸をしよう。幼稚園の時の洋子先生はかけっこの始まる前はこうすると落ち着くと言っていた。健太兄ちゃんには本当に頭に来た。何と笑いを抑えているのだ。僕は隅の方に行って背を向けた。
「ゴメンな。哲夫。笑ったりして」健太兄ちゃんはお店のマッチ箱をいじくり回しながら真面目に言った。僕は何にも答えなかった。
健太兄ちゃんはマッチ棒を床に並べて何かコソコソやっている気配がした。気になって振り返ると「哲夫、ちょっとこれ見ろよ」とあぐらをかいていて床を指差した。僕は隣に行って覗き込んだ。するとそこにはマッチ棒で僕の苗字が書かれていた。
「読めるか?」
「読めるよ。僕の苗字の三田」
「じゃ、次はこれだ」と今度は1プラス1イコール2を作った。僕は少し落ち着いて来ていたので「ゼット」と答えた。健太兄ちゃんは少しの間キョトンとしていた。
「あぁ。そうか。そうか。へぇー。そう来たのか。容赦の無い奴だな。でも、可愛くないけど面白いじゃん」と言い、ニコニコしてくれた。思ったより受けたようだ。
僕達がこんな事をしている間に外では大変な騒ぎになっていたらしいのだ。お母さんは僕がなかなか帰って来ないので和田のお婆ちゃんに電話をかけ事の次第を知り、管理人さんの所に走った。後から聞いた事なのだけれども管理人さんは以前に消防署に勤めていて地元のレスキュー隊の人達の事をよく知っていたそうなのだ。エレベーターの会社の人達よりも早く来たそうだ。
このばたばたとした状況にお母さん、和田のおばあちゃんの他に真美ちゃん、公ちゃん、それに二人のお母さんとオマケにシモーヌ先生と先生の友達のグロリアもやって来ていた。7階のエレベーター前には何と総勢20人位の人だかりが出来てしまっていた。
しかし、エレベーターは突然何の前触れも無く動きだしていたのだ。
健太兄ちゃんはマッチ棒遊びに飽きてしまった僕を見て今度は変な踊りを踊り始めた。これも後から教えて貰ったのだけれども安来節というそうなのだ。以前にお店に来たお客さんが酔っ払ってやっていたらしい。どうしてなのか分らないがマッチ棒を5本ずつ鼻の穴に入れ、手足をばたばたさせている。何かを掬っている様なのだ。突然、扉
が開き、大勢の人々が僕達を待っていた。僕は笑い転げていてエレベーターが動きだした事は知らなかった。健太兄ちゃんも踊りに夢中で同じだった。お母さんの顔だけははっきりと覚えている。薄いピンクのハンカチで目の辺りを押さえ口をぽかんと開けていた。
この事件を境に真美ちゃんは僕から逃げなくなった。何とか髪の毛事件は時効になったようだ。一安心なのだ。
夏休みに健太兄ちゃんとテントを持って山にキャンプに行く事になった。少し真美ちゃんや公ちゃんも誘いたかったけれど男と男の約束だ。二人きりで行くのだ。スッゴク楽しみなのだ。健太兄ちゃんは僕がハンバーグとカレーが好きだと言うと「120%理解した」と言ってくれた。
もう一つ小さな楽しみが有る。健太兄ちゃんにセロリが好きかどうか聞いてみたいのだ。何となく「嫌いだよ。あんなの。変な匂いがするじゃんか」なんて大きな声で言いそうな感じがする。
2000年5月1日(木)
近所のたんぼに苗が植えられた頃に・自宅にて
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